「みっさきちゃ〜ん」

空き時間なのをいいことにご機嫌で岬の温室に現れた鳴海は、だが当の主が不在だと幾秒もせずに気付いた。
――たいがい、その呼び方はやめろ、だとか生徒が聞いてたらどうするとか、むっつりした声が脊椎反射並みの速度で返ってくるので。

「おかしいなー」

こんな時でも、ンー、とわざわざ顎の下に手をやりポーズを決めると、
考えあぐねるように緑に溢れた温室の中をぐるりと見渡す。
岬のスケジュールを鳴海はちゃあんと把握しているし。
そのうえ怪しまれない程度、休憩とか休日とかちゃっかり合わせていたりもしているし。
空き時間、岬は余程じゃない限り、彼の愛すべき温室に籠もっていることなんか、太陽は東から昇るくらいの勢いで認知されているわけで。


暫し、春の陽光にぬくりと満ちた温室の、咲き乱れた花々の彩やかさを鳴海は眺めてみた。
土の上をひとりでにゴロゴロしている春キャベツとか、温室内を勝手に歩き回ってるチューリップやらパンジーやら、奇々怪々な光景は既に当たり前のように享受して、
あー、とあることに気付く。
なんといっても、時は4月。
季節は春だ、春。



そういうわけで、温室を抜けて裏手口を暫く進んだ鳴海はやがて、桜の花びらが舞う景色の中にようやく岬らしい人影を認め、
思った通り、と内心満足げな笑みを浮かべた。
生徒にも教員にもほとんど知られていないこの場所、そしてこの時期にしか見られない2人きりの特権。
満開の桜が連なり、花吹雪、という言葉が実に相応しい、絶えず花びらの舞い散る幻想的な薄桃色の風景。の中に、愛しい人の姿がある光景に思わず目を細めてしまう。

「岬せんせ〜、て、わあ」

呼びながら、一面に敷き詰められた桜色の絨毯を踏みしめて歩み寄って、だが近づくにつれて明らかになる、岬のそのちょっと妙な格好に。
どしたの、と突っ込む前に、鳴海の姿に気づいた岬は珍しく機嫌の良い表情で、来い来いと鳴海を手招きしてみせた。

「どうだ、ナル」
「――いやどうだって岬先生それ、お遊戯会で桜の役でもやるの?」
「お遊戯会?何の話だ。ほら、立派に咲いてるだろう」

見てみろ、この桜を、と。どうだ、もうすごいだろうと、いつもの親バカ顔で言う、岬の頭やら肩やら服にまですごい量の桜の花びらが降り積もっていて、いやむしろ埋もれそうな勢いで、着ぐるみでも着ているかのような全身ピンク色の姿に、さすがの鳴海もンー、とちょっと瞠目して首を傾げる。

「なんというか岬ちゃんの、桜への愛情はよく伝わる」
「そうだろう。この子達はな、年々よく育って、すぐには花が散り切らない素晴らしい成長をしたんだ。蕾が次々ついては咲いて、簡単には葉桜にならない」

なるほど、それがこの文字通り桜色の幻想的な風景の所以らしい。
新年度の忙しさも吹き飛ぶ美しさだ、と珍しくウキウキした表情で感慨深く頷く親バカな岬の気持ちもよく分かるし、そんな姿も正直なところ可愛いんだけれども。

「うーん。でもちょっとこの姿は、生徒には見せられないかなあ」

と申し訳程度には伝えておく。
だってこれ、見る者が見たら大喜びでシャッターを切ってスナップ写真が出回るやつだ。
岬の愛されっぷりが分かるというもんだがネタになること必至だし、あのやたら頭が切れるショートの自分の教え子なんか笑顔で売りさばいて荒稼ぎしかねない。
なにより純粋に岬に想いを寄せる子なんか、この岬の愛情深さにうっかりキュンと胸を打たれそうで、そういう子達が喜ぶ要素もなるべく鳴海は排除しておきたい。


「…そうか…まずい出で立ちか」
「そうだね、あとこれじゃ動けないよね」

とも思っていたので付け加えておくと、
岬が神妙に相槌を打ったことで、心なしか桜の木々の枝もしゅんとして、
ひっきりなしに、それこそ愛情を注ぐかのように岬の頭上に降り注いでいた桜の花びらの勢いも減少する。
ちょっと申し訳ないことしたなあ、という気持ちにはなったが、いつまでもこのままという訳にはいかない。

柔くそろそろと花びらを払い落とした岬は、どうだ、取れたか?と鳴海の方を無防備に見る。
まだかなあ、と言い募りながら、岬のさらりとした綺麗な漆黒の髪に手を伸ばして花びらを髪ごと掬う。
髪か、と呟きながら岬も自分の頭に手を伸ばす合間に、2人の指が絡み合う。

そう動けなくっちゃあ、こういうイチャイチャもできないし、と満足げに鳴海が艶やかに笑むと、
桜にあてられたのか穏やかに微笑む岬も、そこはかとない色香。

──この桜の演出はずるい。

だって普通、意中の相手と居ていいムードに持ち込もうと思ったら夜景のキレイなところに行ったりするもんだ。

この幻想的な桜景色は、
──岬しか、岬のアリスでしか成し得ない唯一だ。


「…岬チャン、男の子でも女の子でも、ここに連れ込んで浮気したりしちゃあ、ダメ、絶対」
「……何で急にそうなるんだ」

すっかり花びらを落としきった岬は、呆れたように鳴海を見やる。
そうして、もう落ちたな、と呟く岬を引き留めて、まだ、と繋がったその手を引き寄せる。

「まだ1枚、落ちてないよ」
「どこ──」

岬の言葉が最後まで紡がれることはなく。
そのきれいな桜色の一点に自身のそれを重ねて、柔く淡く愛おしむようにキスをする。

「ほら、ここ」

言いながら敏感なそこを優しく指でなぞって、
再び深く重なった2人の影に。

きゃあと照れるように桜吹雪が舞い散って、
桜色の景色の中に2人の姿は閉じこめられた。