くずれだしたせかいに
バイトを上がって安アパートに帰り着く。建て付けが良いとは言い難いドアを開け、
ポケットに突っこんでいた鍵と財布を定位置に置き、買うのは3日に一度と決めている
新聞を座卓の上に無造作に放る。
蛇口を捻り、うっすらカルキ臭い気もする水を気にせず飲んで、
そういえば空腹だなと気が付いた。
肉体労働での汗を流すかそれとも食べるか、ほんの少しだけ逡巡をして、
それ以前に食べる物あるっけと冷蔵庫を覗けばきれいにラップのかけられた皿がまず目についた。
ああ、そういえば。
右の皿が米で左の皿が豚野菜炒め、とか言ってたっけ。
作りすぎたので、と言っていたつい先日の彼女とのやり取りを秋山は反芻して。
迷いのない手つきで2つの皿を取り出すと、取り敢えず飯だな、と電子レンジに皿を放り込む。
温めている間、することも無いので今一度新聞でも読むかと腰を浮かし、ふと目に付いたのは、
床に転がっているクマのぬいぐるみと窓際の植木鉢だった。
ただでさえ、ボロいアパートの男の一人住まいには実に、不似合いであるそれら。
持ち込んだのは言うまでもなく神崎直で。
クマのぬいぐるみは、UFOキャッチャーでうさぎのぬいぐるみを取ってあげたお礼だとか言っていた。
鉢の方は、迷子のおばあさんを助けたお礼にもらった株のお裾分けであるらしい。
とりあえず転がっているぬいぐるみが可哀想になり、拾い上げてどこに置こうか考える。
お礼でぬいぐるみを持ってくる、という発想はよくわからなかったがどこか彼女らしくて、
何となく微笑ましいような気持ちにさせられた。
直はUFOキャッチャーに苦戦していたがぬぐるみの位置と角度と重心、とかを計算すれば取る
のは実に、朝飯を作るより容易いから、たいしたことでもない。
なんとなく、ベッドの脇に置いてみた。
彼女もこうやって置いていたかもしれない。
あと寝る時なんか、抱きしめて寝そうだな、とふとその光景が頭に浮かびかかって、いや
いやいやそれを考える自分ってどうなんだと、即座に思いなおしてベッドに置くこと
だけはやめた。
結局、鉢と反対側の窓際に置く。
そういうわけで鉢も目に入って、水でもやるかと手に取った。
株のお裾分けと言っていたが、もっというとその時彼女が感じた嬉しい、のお裾分けでも
あるらしい。
薄く色づいて咲く花の、花びらが数枚欠けてしまっているのは、何もない所でこけるという
ミラクルを直が起こしたためだ。
もちろん秋山は鉢ごと直を受け止めたが、その時のことが思い出されて可笑しくなって
秋山はほんのちょっと笑った。
コップから鉢に水を注ぐ。
注いで、新しい蕾みがあるのに気付いた。
花びらが欠けても、例え散り朽ちても、こうしてまた芽吹く生命は、強い。
という、暫く考えたこともなかったことに思いが到る。
それは、花びらが欠けてさも自分が怪我をしたかのように、申し訳なさそうな傷ついた
顔をした、直の心に触れたあの時のような、新鮮な感動、にも似た感覚。彼女は遥かに、
喜怒哀楽に素直で、嬉しければ笑いドラマを見ては泣く。
そうして一緒にいることで、一滴一滴、確かに与えられている何かにはまだ気付かない
ふりをして、
そういえば、と気付いたことは、煙草を吸うのを忘れていた、とかいうことで。
最近本数も減ったな、と。でも何か、無くても、最近うまく深呼吸ができるし。
この、温かいような居心地の良いような感覚は何だろうと、考える前にチン、と軽快な
レンジの音がして、飯にするかと思う。
続いて、味付けのちょうどいい豚野菜炒めを頬張りながら考えたのは、お礼とともに蕾み
のことでも伝えようかなあということで。
きっと彼女は、あの屈託のない笑顔で喜ぶんだろう。